ゼロになって

短歌と日記と趣味について

【短歌解説】「愛」編

冬野水槽です。
今回は自選歌集「愛」編の解説をしていきます。

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「愛」編

 

 

 

 

ジョウヨクとドクセンヨクをブレンドし、理性で濾したものになります。

 

”愛”の個人的な解釈を、コーヒーの解説のように表現した一首です。
「情欲」と「独占欲」をカタカナ表記にしたのは、コーヒーの銘柄っぽさを表現するとともに、本能的というか生々しさみたいなものであることを示唆したかったからです。
ドロドロとした本能を「理性で濾す」ことで、ようやく”愛”という体裁が守られ、ブレンドコーヒーとして提供されうるものとなる。愛とはそのようなものだと思っております。

この歌を最初に持ってきたのは、歌集そのもののテーマ「愛」を真正面から描いた作品だからという点と、「喫茶店でまずはコーヒーを頼む」という雰囲気から、”はじめに”としての一首としての役割を持たせたかったからです。

 

 

 

本当は隣の席の男よりきみの飼ってる犬がよかった

 

自分の立ち位置を劇の配役に例え、近づかない距離を嘆いた歌です。
「この世界」という壮大な劇の中で、”ぼく”は”きみ”の「隣の席の男」という比較的優遇された役に就きます。しかし本当は「きみの飼ってる犬」という配役で、”きみ”と触れ合い、愛されたかった。

 

「愛」という抽象的なテーマから、”きみ”という恋愛対象がいる、具体性の”起こり”としての歌として二首目に配置しました。少しずつ焦点が現実世界に合っていく中で、学生時代という舞台、劇の配役という最初に起こる現象、届かない距離への羨望、といったこの自選歌集を象徴する一首でもあります。恋愛コンプマシマシマンなのでこんな歌ばっかです。

 

余談ですが、この歌に限らず私が”ぼく””きみ”というひらがな表記を使っている時は、自分自身が経験していない「概念としての一人称、二人称」を指しております。実体験をそのまま詠む場合以外、基本的にはひらがな表記を使うように意識しています。全ては虚構なので。

 

 

お通しはぼくが分けるよ
ピッチャーを一気飲みする奴を見るなよ

 

飲み会での一幕を描いた一首です。
複数人が参加している飲み会。”ぼく”は”きみ”に良いところを見せようと、「お通し分けるよ」とせっせとサラダを取り分け始めます。ところが”きみ”はそんな事には目もくれず、ピッチャーを一気飲みしている”奴”を愛おしそうに見ていた...
という、言ってしまえば偽善と空回りの歌です。
それはそうとなんか「率先してサラダを分ける人」より「皆で飲むためのピッチャーを一人で飲み干す人」の方が注目・評価される風潮ありません?お通し来たつってんだから最初の一杯の話でしょ?一人で飲むなよそんなの。飲むにしても中盤にしなさいよ。そんな風潮ありませんか?そんなことない?そうですか。


偽善的で利己的な”ぼく”が「奴」と呼ぶような人は、おそらくお調子者で酒に強い奴(元サッカー部)みたいな感じではないでしょうか。私の解釈にすぎないけど。
あえて描写していないので、君も自分だけの”奴”を想像してみよう!

 

舞台が教室だった二首目から、居酒屋へと舞台が移りました。
ここでも引き続き「届かない距離」という前提があります。サラダを取り分けようが無理なもんは無理なんよ。叶わぬ恋。
また、”きみ”の視線が”奴”に向いていることから、今後の不穏な展開を示唆しています。

 

ちなみにこの歌は以前詠んだ

「頬燃ゆるラムネサワーの向こう側 はにかむ先は彼を見ていた」

のリメイクです。テーマやシチュエーションは変わらず、より想像しやすいような表現に推敲したつもりです。

 

 

あのひとへ送信ボタンを押す度に音を立て減るぼくの充電

 

”あのひと”へメッセージを送る”ぼく”。
しかし、どこか落ち着かない様子。漠然とした不安がまとわりつき、送信ボタンを押す指は重い。楽しいはずの会話も、携帯の充電と心をすり減らしていくばかり...という、不穏さを前面に出した歌です。

 

対象が二人称である”きみ”から”あのひと”に変わっているのは、”きみ”との心の距離がさらに広がっていることを示唆しています。時系列的には飲み会の直後を想定してもらえれば、今後の流れがスムーズになると思います。

 

この歌、元々は私の実体験を基に詠んだ歌なんですよね。
ちょっと前、ある人とメッセージのやり取りをしていたんですが、どうも距離を感じてしまい、その上毎回「嫌われるかも」という不安を込めながら送信ボタンを押していました。その時の赤くなった電池残量のアイコンと自分の心のすり減り方を重ねた瞬間、この歌が生まれました。
この歌集では文脈上”あのひと”を”きみ”と同一人物であるような解釈をしましたが、本来は私の知人を指しています。

この不穏さを演出しつつ、場面が転換し最後の歌へと移ります。

 

 

「あいしてる」語る耳元
何度目の初夜を迎えてひらく躰か

 

場面は”ぼく”の視点から”きみ”の視点へ。
飲み会の帰り、良い感じの男に連れられホテルに足を運ぶ”きみ”。
口だけの「あいしてる」を耳元で囁き、このやり取りが何度目なのかも分からないまま今夜も躰をひらく。その様子を自虐的に詠んだ歌です。

 

はい。NTRです。
正確には「BSS(僕が先に好きだったのに)」ってやつなんですかね?
これは「躰をひらく」という表現を使いたい気持ちから生まれました。Twitterかなんかでこの表現を見かけ感銘を受けたので、何とかして自分も形にするべくあがいた結果に完成した一首です。
また、この歌はここには掲載していない

「あいしてる」朝日の照らすしぼむ目を知ってなお繋がれたままの手

という歌の対比として制作しました。純愛と性愛の対比的なものがしたかったので。

 

恋愛とは得てして後味の悪いものだと思っています。私の周りでも、細かい摩擦やすれ違いなどから破局し、別れてから相手の悪口や文句を垂れる人が多くいるので。
ただ、それは悪いことではないと思います。おそらくそれが人の本質なので、善し悪しで判断できるようなものではないと、私は考えております。

そしてこの感情、後味の悪さやるせなさを表現すべく、この歌を最後に配置した次第です。性格が悪い。

 

 

以上、自選歌集「愛」編でした。
結構それっぽいことが書けたような気がする。
自選歌集はあと3種くらいあるので、とりあえずそれらだけでも解説できたらな、と思っております。

 

今回はここまでです。
最後までご覧いただきありがとうございました。